白川好光 博物館

白川好光 博物館 No.04

■ 生き抜く力を蘇らせる力を持った人「 白川好光 博物館 」

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「人生の参考書」 白川好光:著7人の父母に育てられ、波乱万丈の人生を生きてきた白川好光さんが贈る実践と経験の「人生のヒント集」
「学歴がなくても人様のお役には立てるものだ。 机上の理論より、実践で積み上げた経験が勝る。
 万の学問より耳と目と身体で覚えた一つの言葉に強さを感じる…。」      (本書より)

白川好光の新著「生かされて生きる」(2021/1/25発行)
白川好光 生かされて生きる

皆様方へ新刊のお知らせ

拝啓
 冬将軍大寒になりましても寒い日もあれば春のような春日和の温度差が季節を迷わしているこの頃ですが、皆様お元気でしょうか。
 お陰様で私も元気にゴルフに写真、これからスキーにと元気に青春しております。放送大学も心理学も二学期を頑張って、4月からまた新たに一学期が始まりに学びと喜びを感じて頑張って日々うごめいております。
昨年夏に若者たちから晩年までの生き方参考書を綴って、2か月で書き終わり出版社の校正と共にいよいよ出版にこぎ着けました8冊目の新刊 「生かされて生きる」正に私の人生の波乱万丈から、生い立ちから生まれた題名に致しました。
今回も故郷秋田県内の全大学から高校から中学校全校に、生まれ育った北秋田市内の小中学校、図書館と250冊を秋田県内学校関係へ寄贈と決定されております。
又茨城県別荘30年の笠間市小中学校、図書館に、茨城県内高校共に180冊入れる事に、今在住の三郷市、小中学校、 図書館に埼玉県内の高校に250冊と各県の教育関係者県知事や県教育長の対談にて許可決定を頂き喜んで寄贈の運びとなりました680冊です。
各県の寄贈式に日程が決まり次第出席して県庁に足を運ぶ予定です。
著書内容は40年間青少年に関わり、72歳で夜学定時制高校卒業、 孫のような生徒達と机をならべての体験を生かして、高校生未来へ自分の足で責任持った行動を望む未来像。
青少年はじめ、子育て学び社会学の未来の計画に命の大切さ、 家族親子の晩年への幸福論を取り入れ、地平線の彼方に消えるまでの生き方命の尊さです。
私も75歳の年を迎えて先が見えてきました。今できる事を少しでも青少年指導を続ける事が「世の為人の為に」と考えて前回同様に今回の運びとなりました事をご報告申し上げます。

                   令和3年2月吉日  白川好光



「人生の教科書」 著:白川好光 静人舎

馬鹿でもこうして生きてきた!
白川好光の人生相談
NHKラジオ深夜便「こころの時代」4回出演

波瀾万丈の人生を乗り越え、72歳で定時制高校を卒業
努力と忍耐で道を切り拓いてきた著者が
あなただけに贈る、心あたたまる「幸福論」
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~行動にチャンスあり不動にチャンスなし~

今日、動けただけでも幸せと思え
今日、笑えただけでも幸せと思え
今日、生きただけでも幸せと思え

              白川好光
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このたび私の著書の第7弾『人生の教科書』が刊行の運びとなりました。
前著『生きる力、知恵の力』刊行から2年の歳月が過ぎこの間、月刊誌に人生論を連載しておりましたが、各方面よりご好評をいただいたこともあり、この連載分に新たに書き起こした文章を加えて1冊にまとめました。
今回は、この春に 卒業した夜間高校4年間に若者たちと机を並べて学んできた私の経験も盛り込んであります。クラスメイトの若者たちは、それぞれに悩みや苦しみを抱え、私からすれば、道徳や倫理面で問題のある行動も多々見受けられましたが、それでも未来へ向かう姿勢には希望を感じさせるものがあり、私自身、多くの刺激を受けました。
本書はそんな経験を元にした現代若者論をはじめ、青少年の教育問題、親子問題から晩年の生き方まで、老若男女すべての方々の参考にしていただきたいという思いで綴り、私なりの「幸福論」としてまとめたものです。
本書によって悩める人を一人でも救うことができればそれに勝るよろこびはありません。
これからも皆様方のご指導ご鞭撻のもと、頑張っていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。 白川好光
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白川好光氏の新著「生きる力 知恵の力」 著:白川好光 くまがい書房


困難を克服し苦労を乗り越えてきた著者が贈る
365日の実践と経験から生まれた「人生の参考書」
人は皆、孤独を抱え、寂しく苦しい日々を悩みながら生きている。本書はそんなあなたを力づけてくれることでしょう。
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私は複雑な家庭環境に育ち、波乱万丈の生き方をしてきましたが、69年間の経験を生かすことは、この世に生を受けた私の使命だと思っています。「世のため人のため、そして自分のため」に生きる知恵とコツを、私は体と心のすべてで受け止めてきました。この私の経験をもってこの世に貢献したいという情熱を、皆様に役立てていただき、悩みや苦しみをいっしょに考え、幸福へと導いていきたいのです。

                         白川好光

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★文字が小さいものは画像をクリックすると拡大します
■埼玉新聞 2021年 3月27日(白川好光)
白川好光「埼玉新聞」2021年3月27日

■北鹿新聞 2021年 3月30日(白川好光)
白川好光「北鹿新聞」2021年3月30日

■読売新聞 2021年 4月22日(白川好光)
白川好光「読売新聞」2021年4月22日

■秋田さきがけ新聞 2021年 4月23日(白川好光)
白川好光 秋田さきがけ新聞 2021年4月23日

■北鹿新聞 2019年11月25日(白川好光)
白川好光 北鹿新聞20191125

■東武よみうり20191202 / ■秋田さきがけ2019
白川好光 東武よみうり20191202白川好光 秋田さきがけ 2019-320

■公益財団法人 北野生涯教育振興会 第四十一回 課題「私の道草」

 『 我が道草人生に悔いはなし 』 

            白川好光

 私は「後悔」という言葉が嫌いです。そんな思いで七十三年間、生き続けてきました。
 不倫の子として産まれた私は、七人の「育ての」父や母のもとで養育されました。脊椎カリエスの障害を抱えた私を育ててくれたそんな七人の父母への感謝を忘れたことはありませんが、過去を振り返ることはできるだけしないように今日まで生きてきました。
 思えば私の人生の中で、今がいちばん充実している気がします。初老にして青春時代を迎えたような気持ちです。
 昨年の春、埼玉県立吉川美南高等学校の夜間定時制を卒業し、今は放送大学で心理学を学んでいます。過去にできなかった勉強が今できる喜びは大きなもので、いつもワクワクしながら授業に臨んでいます。
 周りからは、棺桶に片足入れたような年齢になって勉強してももう遅い、長続きはしないだろうと言われながらも、夜間高校を四年間、無遅刻無欠席で通し、皆勤賞をいただきました。人生をぐるりと遠回りしたような、長い道草だったかもしれませんが、念願の高校卒業を果たし、大満足でもありました。
 中学校卒業時、高校進学は諦めて社会に出た私でしたが、五年前、六十八歳のとき、孫の高校受験への勉強姿に刺激され、長年叶えられなかった高校進学への夢の実現に挑戦したのです。入学式の会場では、若い生徒たちと一緒に入場する年老いた私に周りの目が集中して、すこしばかり恥ずかしい思いもしました。
 しかし高校の教室で、五十三年ぶりに生徒たちと机を並べて勉強できたことは、私の脳の活性化だけでなく、大きな財産にもなりました。
 初めは、漢字や作文を学べればよいという軽い気持ちでいましたが、授業についていくのは大変なことでした。数学の分数計算も化学の元素記号もなかなか覚えられず、一学期が終わるころには覚えられるだろうといった安易な考えも、二学期になって化学反応式の計算が始まると吹き飛びました。これではだめだと思い、息子の年代の先生から補修していただいて必死に勉強した結果、数学や化学だけでなく、国語や社会の成績も上がり、これが学校の学びだと実感しました。体育の授業では、十代の生徒たちと四年間一緒に身体を動かし、健康になりました。お陰様で卒業式では優秀賞の賞状をいただくことができ、生まれて初めて貰う賞状には大感動でした。
 過去を振り返ることは嫌いですが、今の私を知っていただくために、私の前半生を少しお話しすることにします。
 少年時代に住んでいたおんぼろ家は、冬の吹雪の日には家の中まで雪が入り込んできて寒かったことを忘れられません。藁ふとんを頭までかぶって寝ていました。障害があったため、中学までは身体が弱く、時には仲間たちからいじめられ、大人にまで馬鹿にされました。学校の成績も悪く、人目を避けてうつむきがちになり、孤独でひねくれた時期もありました。私の関心は自然と学校の外に向かい、朝の草刈り、ヤクルト配達、新聞配達、リヤカーでの魚行商など、学校の勉強より働くことに楽しみを見出した少年時代でした。
 でも私には夢がありました。好きな大工職人になって自分の手で家を建てることです。養子として育ててくれた両親への恩返しに家を建ててやろうと決意し、中学卒業後、すぐに大工の修業に入りました。まだ体も貧弱でしたが、信念と熱意があったので、幸い修業にも耐えることができました。このときの経験で忍耐力が身体に植え付けられ、その後の人生においても私を支えてくれる土台となりました。
 棟梁に怒られ、兄弟子からは厳しく叱られ、時には材木まで投げつけられることもあった厳しい修業でした。真冬の寒い時は冷たいバケツに氷が張っていましたが、その冷たい水で鈍研ぎや鏧研ぎ、鋸研ぎをしました。霜焼けで指から血がにじむのは当たり前でも、一日も早く一人前の職人になろうと一生懸命働きました。朝の七時半の電車で同級生たちがカバンを持って高校へ通学する姿を見かけると、羨ましくて羨ましくて涙が出ました。いつかは
高校だけは卒業しようと、ひそかに胸の底に刻み付けたものでしたが、家の貧しさを知っていたので、諦めざるを得ませんでした。
 今考えると、あのとき高校に進学しなかったからこそ、この年で高校、大学で学ぶという遠回りの道草の楽しさを知ることができたように思います。
 秋田での五年間の修業を終えて、兄弟子を頼りに東京へ上京したのは二十歳の冬でした。夜行列車・津軽二号に揺られて早朝の上野駅へ降り立ったときは、大都会に出てきたという緊張で身が震えたことを覚えています。貧乏生活を抜け出しこの都会で一旗揚げてやるんだと、未来への闘志が燃えたものでした。
 しかしそれは簡単なことではありませんでした。アパートの親方の部屋に住み込み生活をすることになり、部屋の入り口の一帖の土間に布団を敷いて寝起きする日々が始まりました。朝、弁当を持って六時にアパートを出て現場まで自転車で一時間かけて通い、毎日夜の九時まで残業の生活が続きました。帰りは空腹のあまり、ポケットに入れたブドウパンをかじりながら自転車のペダルをこいだものです。なんでこんなに苦労するのかと涙が出ま
した。
 住み込みで働いて三万八千円の給料のうち、三万円を定期預金に積んで残り八千円で生活しました。なんの楽しみもなく、ただただ働くことだけでした。いちばん寂しかったのは友達が一人もいないことで、いやというほど孤独感を味わいました。
 そんな生活を我慢して何年か続けたあと、育ててくれた秋田の両親に家を建ててやろうと、久しぶりに故郷に帰ったときのことです。二十三歳でした。いつも消極的で引っ込み思案だった私のところに、集落の若者たちが来てくれたのです。祭りの夜だったと思いますが、私は長い孤独の世界から抜け出したように感じ、うれしさの余り心も躍り、とめどなく話をしました。私の繰り出す東京での苦労話と失敗談にみんなは大いに笑ってくれました。その瞬間、私は人と関わることの楽しさを悟ったのです。豚もおだてりゃ木に昇る勢いで話し込む私に、「お前は変わったね」と言われ、自分自身、驚いたものです。百八十度の性格大転換でした。性格は変えられることも、このとき知りました。人と関わることの楽しさと喜びを知り、性格に積極性が生まれた田舎での出来事でした。
 家の新築は、運勢の悪い中でも一生懸命育ててくれた両親への感謝の気持ちからでした。両親といっても育ての父は戸籍上の長男でした。そして育ての第二の母は長男の妹でした。離婚して出戻ってから育ての母になってくれたのです。私はその二人のもとに養子として貰われ、戸籍上の八男でした。ですから長男とその妹が養子として来た八男の私を育ててくれたわけで、その恩返しが新築の家のプレゼントでした。
 上棟式の当日、酒に酔う父の姿を初めて見ました。貰われてきた子供が建ててくれた家に集落の人々が集まってくれたことは、どんなにうれしかったことでしょう。喜びの酒だったことでしょう。父が酒に酔う姿を見たのは、このときが最初で最後でした。
 本来であれば、養子とはいえ一人っ子だった私は地元に残るのがふつうだったかもしれません。しかし私は六万円を持って再び上京しました。ところが私の戻った仕事場には、私の座る席は残されていませんでした。仲間たちの「独立しろよ」という言葉に励まされながら、私は独立を決意しました。
 私の独立起業は、四畳半一間から始まりました。部屋には小さな流し台があるだけ、トイレは廊下の奥に共同トイレで、風呂は銭湯でした。朝六時に起きて弁当を作り、昼間、仕事の合間に夕食用の買い物を済ませ、夜遅くまで一生懸命働きました。無我夢中でした。週末に来て掃除や食事を用意してくれていた女性が今の妻です。
 その後仕事も順調で最初の弟子もとり、会社も次第に大きくなっていきました。ところが建築を請け負っていた親会社が倒産してしまいます。私が三十歳の春のことでした。建売三棟分の不渡り手形の回収額は二千四百万円。私は途方にくれました。巷では関連倒産のうわさも出ましたが、「田舎から六万円持って出てきた原点を忘れないで」という妻の一言で、一度は死も考えましたが、なんとか思い止まり、また一からやり直す気持ちになれました。
周りの人々も応援してくれました。
 このピンチは私に逆転の発想を与えてくれました。「土地から家づくり」を看板に不動産免許を取り建築会社と不動産会社の二足の草鞋を履いての経営で、これがうまくいったのです。人生は思うとおりには進まないものですが、忍耐と努力があれば必ず運勢はめぐってくるものだと感じました。
 そんな私の紆余曲折の人生経験が認められたのか、四十歳も過ぎたころから青少年指導の相談を受けるようになってきました。不登校の生徒、高校中退の子供、ニートの青年たちへの生活指導や相談です。もし私は中学から高校、そして大学へと順調な道を歩んでいたとしたら、今の私は存在していなかったでしょう。若者たちの相談もできなかったでしょう。
 人は生まれた環境によって、その後の人生も大きく左右されます。しかし努力によってマイナスの環境もプラスに変えることはできます。幾たび訪れる人生の岐路での選択が明暗を分けることになるのでしょう。私の歩いてきた道のりは真っ直ぐではありませんでした。思えば随分と道草をしてきたものだと思います。小さな道草を繰り返し、ここまで来るにはいくつもの岐路で立ち止まり、そのたびに進むべき方向を見定めて歩いてきました。ときには大きな岩の前で立ち止まったり、小石につまずきながらの遠回りの道草人生でしたが、悔いはありません。

■茨城新聞2019年01月14日


■朝日新聞2019年01月08日


■読売新聞2018年12月21日


■東武よみうり2018年12月17日


埼玉新聞2018年12月14日


■北鹿新聞2018年12月5日


白川さん!72歳!高校卒業おめでとうございます!









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勝俣工一20220321
    Sun Jeunesse
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            店主:勝俣

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  by KO☆ICHI
 ラッキーの部屋を見る!
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2024年
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